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キャスト達の囚われは?
現在好評開催中のリアル対話ゲームⅡ「囚われのキミは、」は様々なマイノリティの側面を持つキャストと参加者が出会い、共に課題に挑戦することで、自分の中にある先入観や思い込みに気づく感覚を体感するというプログラム。このプログラムをカラフルに彩っているのが”人とはちがう何か”を持つキャスト達。
”人とはちがう何か”を持っているからこそ経験したこと、感じたこと、見てきたこと、それぞれのストーリーを持っています。
今回は14名のキャストの中から、ちーちゃんとバリ・ジョニーちゃんがそれぞれの”囚われ”とバックグラウンドストーリーを話してくれました。
ちーちゃんの囚われは?

僕は、”周囲の目”に囚われているかも。
本当の自分はできるだけ人と関わることを避けたいと思っていて。店員さんや近所の人とも。近所では絶対に行きつけのお店を作らないし、通うのは自宅から離れたお店ばかり。自分が何者かを近所の人にあまり知られたくないんですよね。
出身が田舎で、近所の人や親戚の視線が嫌いでした。幼いころから“男だから”と決めつけられたり、女の子と仲良くしていることに対して陰口を言われたりした経験があって、それがすごく嫌だった。大人になっても、田舎の親戚と会うと「お前はまだ東京におるとか!結婚もせず、地元にも帰らず東京にいて親不孝者ね」と、親も言わないようなことを言われたことがあり、すごく悲しい想いをしたことがある。
コロナが流行している時、親は帰っておいでと言ってくれたけど、東京に住んでいる自分に対する近所の人の目が怖くて、実家には帰れなかった。今でも地元にはあまり帰りたくないなと思ってしまいます。

きっとこれまでの経験から、“周囲の目=ネガティブなもの”という先入観ができてしまって、周囲の目を気にしすぎているところがあるからかもしれない。見ず知らずの人が自分を好意の目で見てくれるのは、エンタメの時。見せ物としている自分に対してだけなんじゃないかな。
普段の自分は指をさされることが多いんです。男友達と遊園地に行けば、珍しいものを見つけたといわんばかりの目で指をさされ、ひそひそと話をされる。”恋人と行く場所”と思われる場所や、記念日・クリスマスなどはそういう目にさらされやすいから、絶対に出かけないようにしようと思ってる。何も気にせず、自由に過ごせるのは、海外くらいかなあ。
自分をオープンにしていくためのきっかけを作りたい
とらきみへの出演も、最初は自分のセクシャリティを打ち明けることに、かなり抵抗があった。でも、自分をもっとオープンにしていくためのきっかけを作りたかった。
実は自分のセクシャリティに関しては、まだ親にも言えていない。絶対に言わない!と過去に決めたことがあって。
だから家族や親戚にとらきみの宣伝もできていなくて。自分が打ち明けることに対するハードルよりも、受け入れる側にその度量がないのではないかというところにハードルを感じてしまって、なかなか話す気にはなれないのが正直なところ。とらきみが終わるころ、少し変われた自分が何かをきっかけにオープンになれるかな。今年は少し可能性を感じている。
バリ・ジョニーの囚われは?
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私は「言葉」に囚われているのかも。
私の、世界の認識の仕方は、基本的に形ではなく、「言葉」。物体よりも言葉が先に来る。目が見えない私は、なんでも言葉で理解して、言葉で共有するから、身体感覚が薄いと思う。言葉だけで理解したつもりになってしまうし、実際に触れたり、体験したりするには、人の助けを借りたり、誰かにお願いしたりする必要があるから、ついさぼってしまうんです。
だから、イメージを言葉だけで理解できていても、形を変えたり、別視点で表現を求められると崩れてしまうことがあります。

2~3年前、耳の聞こえない人と出会ったことをきっかけに、身体感覚や身体表現を学びました。手話を知ることや、演劇、ダンスの経験から、身体表現の存在を知って、ものすごく感動しました。初めて体で表現したことが人に伝わった時の感動は忘れられません。「そうか言葉だけじゃなかったんだ」と、気づかされました。
言葉は大好きだし、手放したくはない。でも、全盲の父が数年前私に言った、「この子は想像・イメージする力はあるが、実態を把握することをどこまでやっていけるかはこれからの課題。自分から動き、触れたいと伝え、つかんでいくのである。」といった言葉が、当時はピンとこなかったけど、やっと実感できている気がします。